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8歳の次男と6歳の長女と共に「ぐるぐる」に乗ってみた。徳山美術博物館前から徳山駅前まで、2キロ程度の旅である。乗客は我々を含めて15人ほどである。いかにもという「若手のお二人さん」はいなく、「母娘でお買い物」タイプの人たちがほとんどで、ファミリー情緒が漂いなかなかいい感じだ。座席数20弱のマイクロバス2台が、徳山動物園の駐車場と徳山駅前間を銀座通り経由で行ったり来たりしている。待ち時間もさほど長くなく、無料というのがとても有りがたい。週末だけの運行らしいが、バス停近くの人にとってはきっと利用価値の高い移動手段に違いない。青葉に模様替えした桜のトンネルを抜けるのはなんとも心地良くて、沿線の見慣れた景色にも少々違った風情を感じてしまう。
しかしである。きょうは休日だからのんきなことをいっていられるけど、自分の日常生活の中でバスを利用して移動をしなければならないという時間は、まったくといっていいほどないのが事実ではないか。私を含め、車の運転免許証を持っている人にとっての最大の移動手段は自分の車である。それはもはや[drive]はなく[on foot]だろうといわれても「ノー」といえないくらいごく自然な行動となってしまっている。
その非日常的な行動がひとつの事を思い出させてくれた。
時は昭和43年、西暦1968年である。次男坊と同じ小学校3年生の私は、徳山高校の近くにあった学習塾に通わされることとなった。河東町の自宅から自転車で通っても構わないのだが帰りは暗くなることもある。現在のように車による送迎など当たり前ではない時代だ。そこで治安の悪い夜道を安全に帰宅できる手段として選ばれたものが防長バスであった。
当時、旧市内を循環するバス路線があった。徳山駅を出発したバスは銀座通り、糀町と経由し、昭和通りを北上、旧国道2号を横切りニ番町をさらに北へ、現在の二番町角のバス停先を左折、毛利マンション前をとおり、角にボウリング場がある岐山通り(岐山通りはここで行き止まりでだった。)を超え西へとに進む。今は明屋書店ができている三叉路を左折しもう一度旧国道2号線を南に横切り相生町の交差点を左折して野上町を経て駅前に戻るというルートだったと思う。ちなみに私は昭和通りから乗り、月丘町で降りていた。帰りはその逆である。昭和通りのバス停は「クラブじゅん」の前、月丘町は「東山口信用金庫月丘支店」の前あたりにバス停があったと記憶している。このバス路線は外回りと内回りで運行されており駅から駅まで子供料金で15円だったと思う。
高学年になると学校が退けるとそのまま同門の悪友たちと通うことがほとんどとなり、このすこしだけワクワクしたバス通は大した実績をのこさぬまま遠い日の想いでとして頭の中に仕舞い込まれていた。このバス路線がいつ廃止されたのかわからないけど、今だからこそ復活させて欲しいと思う。車に頼れな人たちや、車が利用できない時便利だとおもうのは私だけでしょうか。
「くだまつにいくよー。」妻が車の中から子供たちを呼んでいる…・。
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