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まちづくりグループの仲間と駅ビル再生案を、いろいろ考えていた2年前、駅ビルの開業10周年記念として発行された「徳山駅ビル10年誌」を手に入れました。その中には、興味深い内容が多く書かれていました。抜粋させてください。
昭和33年に徳山公論に掲載された「徳山民衆駅の構想」(当時の徳山駅長 川原太郎さん)
では、
―(前文略)目下の処、国鉄自体が国鉄の資金で徳山駅の駅舎を全面的に改築すると云うことは、先ず望めません。しからば「民衆駅」と云う構想で進む以外、徳山駅舎改築の途はないのです。(中略)要は、徳山市と云うより光、下松、南陽を含めた大徳山地区の中央駅にふさわしい構想がのぞましい次第です。この近くでは、最近、小倉駅が四階建ての民衆駅が出来ておりますが、(後略)とありました。
また、徳山市企画課長(昭和54年当時)末富武志さんの「駅ビル建設の思い出」には、
―徳山駅を、躍進する本市の新しいシンボルとして民衆駅に建て直そうという方針が、市と商工界でまとまりましたのは昭和36年10月であり、いろんな資料を集め書類を整えて、国鉄当局へ初めて正式の申請書を出しましたのが38年8月でありました。
私は、当時、玖村企画室長の部下の一員として、同僚と共に他の民衆駅の経過や経営の状況等の調査、本市の建設計画の作成、国鉄との事務的な・・(後略)
と書かれています。
徳山ステーションビル開設のあゆみでは、昭和44年9月 新駅舎国鉄部門営業開始、昭和44年10月 徳山ステーションビル営業開始 となっていました。
駅ビル開業後、山陽新幹線が花岡から金剛山にぬける案もあり、徳山駅併設となるよう地元婦人会で努力された婦人会長の苦労話なども書いてあります。
また、駅ビルが5階建てとする計画で基礎工事されており、2階継ぎ足してビジネスホテルを経営するという計画が挫折した経過が書いてあったり、借入金を5年で完済することに計画したのは許可をとおすためで、銀行に対しこの計画は出鱈目なのだとも言えず・・・という公認会計士さんのおおらかな発言もありました。ちなみにこの借入金は、10年を経て未だに完済されておりません。となっておりますが、駅ビル経営は、初年度は赤字でしたが、2年度からは黒字決算を続け、第9期からは5分配当が可能になりました。と書かれています。
いづれにしても、いろんな方々の思いが結集して作られた駅舎であったようです。それであれば、第3セクターが清算されようと、せめて関係者や市民を集めて、駅ビルのお別れパーティくらい してもよかったのではないでしょうか?改装工事に入る前なら まだ間に合う気がします。(駅前広場にみんなが集まるとか)
市が施設を買い取ることも、改装する事も、これから維持費が発生することも、何も文句を言わずに、どうぞ、と言う市民や議会です。誰も、なにをうわついているんだぁ。とか怒らんでしょう。駅ビルが清算される頃、駅ビルの従業員さんに お別れパーティくらいやりましょうよ。と言ったら、そうしたいが、批判が出そうで・・・と淋しそうだったのが、忘れられません。
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