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  日刊新周南に連載中のリレートーク ( 年 月掲載)

馬耳周南風

    透明な時間の奥行は?

 最近メディアを通じて入ってくる情報がクリアになったと思う。「情報公開」や、「透明性」などのキーワードのもと、今まで知られていなかった事柄が国民の前に少しずつ明らかになろうとしている。知りたくてもわからなかったことや世の中の淀んだ部分を整理して、風通しをよくして行こうという気風がここには感じられる。このような動きと時を同じくして、街に出回る商品に「スケルトン」や「シースルー」といわれるデザインが広く使われるようになった。これは、中身が透ける透明なデザインのことを言うが、透明な入れ物(外枠)を通して中身が宙に浮いているように見える「軽さ」がウケている。そこには、物質的な重さや厚さから開放されたいと願う人間の感性が見て取れる。

 建築の世界でも、この社会の流れを汲んで「透明性」を特徴とするデザインがちょっと前に流行ったのをご存知だろうか。自分自身も10年ぐらい前に透明ガラスを使った開放的な建物をいくつかつくったが、その後の技術の進歩とバブルの勢いで、全面ガラスを使った開放的な建物が都会を中心に溢れていったのである。

 しかし、最近このような現象の広がりに対して少し戸惑いを感じている。世の中がどんどん透明になって、今まで存在していたオモテやウラが少しずつ減少しつつあるような気がしてならないのだ。これは、世の中から「厚み」や「奥行」、または「すき間」などが失われていくことを意味する。「透明」というのは、見えないものが明らかになるということであるが、場合によっては見たくないことまで露出されてしまうという弊害もある。すなわち、「透明」の全面肯定が「露骨」の氾濫をもたらす危険性があるといえるのではないだろうか。自由を追求すればするほど、「奥ゆかしさ」という情緒を失っていくというパラドックスがここには隠されている。

 「奥行」ということでいえば、空間的な奥行もさることながら、時間的な奥行も危うい状況にあるといえるだろう。地方都市では、20世紀の後半に建てられた多くの建物がいま壮年期を迎えている。いわゆる中古の建物が街の中に占める割合が増えたわけだが、この「中古物件」が不動産的視点によっていとも簡単に壊されてしまう。しかし、地方のまちの風景をつくっている過半数はこの中古の建物であり、地方の記憶はこの中古の建物の中に詰まっていると言えなくもない。次々となくなっていく今の状況を放置すれば、いずれこのまちの時間的な奥行は失われてしまうだろう。

 最近巷では古民家再生や近代の洋式建築の保存運動などが認知されつつあるが、これは古さがある臨界点を超えた場合の人間の情緒的衝動と考えることができる。それに対して、中古の建物にはこの臨界点を超えるだけの決定的な古さ(記憶の積み重ね)が足りない。それが安易に壊される原因の一端になっているが、はかなさという観点からすれば、むしろ中古の方が希少価値になりかねないという状況にあることも事実だ。すべての建物を残そうなどと考えているわけではないが、残すべきものや、工夫して再生すべきものをきちっと吟味する必要はある。この作業を怠れば、いずれ時間すら透明になって、記憶の気配さえ感じられない薄っぺらいまちになってしまうだろう。

 いま、日本は情報化のスピードをさらに加速させようとしている。それとともに、世の中から厚みや奥行の実感はますます希薄になるだろう。せめて、次の世代に投影できるだけのまちの奥行ぐらいは残しておかなければならない。

                                      石丸和広


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