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昨年の暮れに劇作家の如月小春さんが急逝した。僕は実際の演劇をついに見る機会がなかったが、彼女のエッセイを1回だけ大学時代に下宿の友人から借りて読んだことがある。その本は、東京というまちを、如月小春という一人の人間の個性によって展開してみせたものだ。例えば、「山手線を一周するとその駅その駅に執着する人々のにおいがする」とか、「池袋の雑司ヶ谷墓地から見上げたサンシャインビルは現代の墓標に見えた」などなど、ひとりの人間の感性の豊かさや面白さに関心したものだ。中でも美術館について書かれたページが印象的だった。彼女は言う。「美術館とは、(高尚な作品をありがたく鑑賞させていただく場所と言うよりは)自分の大切な休日を豊かに過ごすための別荘のようなものだ。」そして最後にこのように問いかけている。「あなたは自分の住むまちにいくつ別荘を持っていますか。」・・・
軽快な言い回しだが、時代の感覚が見事に表われている。既成の価値観を軽やかにすり抜けて、自分本来の生き方を鮮明に示したものだ。当時、既成の価値観に辟易していた自分にとって、実にさわやかな快感を味わったのを覚えている。今の時代に大切なことは、自分の属する社会の中で、その社会との相対的な距離感を自分なりに図りながら、無理をせず気楽にできる豊かさを自分で見つけていくことに他ならない。この本を読んだとき、時代とともに生きる方法をひとつ教えられたような気がする。そしてこの価値観は今も変わることはない。
さて、そんな人間から見えてくる今の徳山駅前の風景は、自分のイメージからあまりにかけ離れた情けないものだ。断っておくが、情けないのは駅ではない。何度もいうが悪いのは駅ではない。悪いのは駅の前に横たわるその空間だ。そしてその空間を作ってしまった我々自身に責任はある。
車社会は歩く人間のゆとりをどうやらすべて奪い去ってしまったようだ。どこに立っても風景は騒々しいばかりで、くつろぐ場所が一向に見当たらない。それどころかどろ臭い人間味さえもなくなりつつある。ちなみに、バス乗り場のベンチに座って、正面に見える噴水の周りの植え込みを眺めてみるとよい。そこには、あれこれ禁止する立札や、時代錯誤なスローガンが節操もなくいっぱい刺さっている。まるでこんなまちに来るなといわんばかりだ。マナーを守る側も、ルールをつくる側もエゴとおごりを控えめにして、少しでもまちを愛する気持ちがお互いにあれば、こうもまちが堕落することはなかっただろう。いままちに必要なのは、真の自由とゆとりであるが、これは「自分勝手の垂れ流し」とは筋が違う。無理をせず気楽にできる豊かさを見つける努力をすること、自分の身の丈に合った生き方を少しでも我々自身が望むことができれば、まちにもゆとりが戻ってくるだろう。駅前の広場が一人一人の「別荘」になりうるかどうかは、他でもない我々自身の日々の行いにかかっているといっても過言ではないのである。
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